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社会不適合〜生きてるだけで精一杯

生きるってそれだけでも十分大変なことです

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私はどうやっても私 

仕事があんまりうまくいかず落ち込む。ミスが笑って済ませない。いつまでも考え続けてしまう。
誰かに甚大な被害を与えたとか迷惑かけたとかでもなく、自分がちょっと恥をかいただけの些細なミスだったんですが、そういうのをさらっと流すの無理だ。

「失敗した、失敗した、あああああー」となってくると平常心が保てない。とーふめんたる。弱いんだよなぁ、自分の思う水準で自分の思う通りに事が運ばないと傷つく。ここ数日そんな感じで。

10月から今の仕事を始めて約8カ月、そんなにいろんな事がちゃんとできてなくても大丈夫、とかなんとか言い聞かしてみても全然ダメ。

できてないループにハマると自分のことを「あれもできてない、これもできてない」と責めて責めて責めて、最終的には何もやる気がなくなってしまう。
だったらほどほどでもいい加減にやれた方がよっぽどと思うけど、だめ。全然だめだ、やれない。

ある日ふっとその状態から抜け出すまで、やり過ごすしかないのよね。自分の存在が一番ままならない。

でも自分以外の人間になりたいわけでもなれるわけでもないし。結局何をどうしたって、自分という人間以外の場所には行けないのだから。所詮は私、無数の素晴らしさや個性を持った人々の中の「私」。

それを希望と捉えるか絶望と捉えるかは本人次第。別の誰かになりたがれば苦しむし、自分をよしとすれば素っ晴らしい人生が待ってる?かもね。私がどっちなのかは…言わない。言ってやるもんかクッソ

…ってなんの話だっけ?仕事の話…まあいいや。人生は最終的には自分次第ってことで
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category: 雑文

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残念ながら、私はそんなにひどくない 

うーん、薬が切れてる?
次の通院までに薬が足りなくなっちゃって、朝晩飲んでる薬が1日1回しか飲めない。
イライラ鬱々するのはそれが原因なのか、人生を受けての結果なのか、分からない。でもこの嫌な感じは薬切れてるっぽいなぁ。頭がズーンと重い。

精神が腐ってんだよなぁと最近思う。物事の受け取り方とか考え方、すべてがマイナスの方へマイナスの方へと。

ポジティブシンキングなんて大っ嫌いだし、明るいって馬鹿と同義語でしょ?と思ってた時期もあった私。別にマイナスマイナスでグチグチしてんのはいいんだけど、行き過ぎると辛いからね。簡単にしんどくなるから。

なんてことないことを、悪い方へ、自分を蔑み貶める方へ、解釈を積み重ねて重ねて行き着く先は、死にたいってことにしかならない。どっかでやめなきゃ。どっかで「まぁまぁまぁ」って止めないと、心が壊れる。

昔はそんなことばっかやってた、自分は欠陥品だ、なんで私はこんなんなんだ、他の人はもっと上手くやってるのになんでなんでって自分にナイフを突き立て続け、ぼろぼろになった。
今はそういう歪んだ自己認識はかなり治ったけど、欠損した自己肯定感は戻んない。

でも結局、感じ方一つなんだよなぁ。薬を飲んで治療して分かったことは、私には特別な欠陥と呼べるようなものは別に何もないってこと。社会生活に耐えないぐらい大きく劣ってる点というのは特になく、ただ「自分はダメだ」と感じやすいってだけなんだよね。

「ダメだ、できてない」と思い続けることで「ダメでできない自分像」がどんどん出来上がって、苦手意識ばかりがどんどん大きくなり、苦手なことを回避するようになったら、あとは坂を転がり落ちるようにドン底へ。

そうやってしばらく地獄を生きた。でも薬飲んで病院通って、リハビリを繰り返した結果、そんなに大きな欠陥はないという結論に。多くの人が持ってる程度の得手不得手。

だけど、自分を否定したい気持ちは理屈じゃない。それを振り払い、理性を保つのが人生の課題だなぁ。
そんなにダメでもない自分を受け入れる。「自分は最低のクズ信仰」を捨てるのは相当難しい。心に刻まれた自己否定の数々はそう簡単になくなってはくれない。

世の中を生きていくには辛くても、そんなにひどくない自分を受け容れないと。あらゆる場面で苦痛が伴う人生はやっぱり勘弁なので、薬を飲んで、思考のバランスを保ち、生き長らえる。

働かなくてよくて、やるべきことも何もないなら、自分のことをグチャグチャにして引きこもるのも一つではあるけどね…。でもほんとに辛いからな。
生きてるだけで、息をしてるだけで、削り取られていく感じ。ジリジリと消耗し、傷ついていく人生。戻りたくはない、けど時々戻りたくなる。すぐ側に、いつも深い穴が開いている。スリリングかつデンジャラスな日々。

category: 雑文

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前の自分、今の自分 

今日は私の変化について。

2月ぐらいから、人との出会いをきっかけにお酒を飲み始めて、ライブハウスにも行くようになり、人格が激変。
人と話をしたいと思ったり、人と飯を食うということそのものに価値を見出したり、お酒を飲んで楽しいと思ったりと、これまでの自分とはまったく違うことが次々と起こり若干困惑。

変わった時は変わったことをある程度は分析して残しておかないと、前の自分の感じ方や考え方ってあっさり忘れてしまうので、結構書き留めていたんです。今日はそれを記事としてアップしておこうかなと。以下この間書き留めてきた文章です。長いですが。


アイデンティティ完全崩壊。非社交的でない自分、人と関わるのが嫌だと思ってない自分、友達がいてもいいと思っている自分、いや欲しいと思ってる自分。私はどこに向かっているのか、自分でもまったくわからない。

今まで色々な変化がおこってきた。病気を治療して、「自分はクソだ、みんなからもそう思われてる」という呪縛から解き放たれ、一定の社会性、人と関わる力を得たのが第一段階。
二段階目は政治活動に取り組むようになったこと。「一切お前らとは関わらねえよ、寄るな」という段階から「みんなと仲良くするのは大事、形の上では」という段階への飛躍。みんなと出かけ、飯を食い、仲良くなる大切さを活動上の位置付けとして理解し、一生懸命取り組んできた。割り切りを武器に、自ら望んだり楽しいと思ったりすることはなく、とにかく頑張ってきたというのが第2段階。

そこから今は更に考えられなかったような変化が起きている。きっかけはとある人との出会いとお酒。とにかくその人と会った時に酒を飲んだらとても楽しかったの。こういうことってあるんだと思った。で、その酒を飲んで楽しかったという経験が、私の完全に閉じていた、諦めていた部分を開けたのよね。全開に。

一人が好き、人間嫌い、「誰も私のことなんてわかってくれない」。多少マシになったとはいえ、あいつらと私は違うという根拠のない高い高い壁は、崩れることなく、ずっとあったわけです。それが酒を飲んだことによって木っ端微塵に消し飛んだ。アイデンティティ完全崩壊。

一人でいることがそこまで苦でないのは、真実。でも、人に対してもっと話をしてみたい、もっと相手のことを知りたいという気持ちは、誰にでもではないけど、一定以上の人には実は今までも持っていた…のよね。

でも拒否されること、仲良くしようとして断られることは何よりも怖かった、耐えられなかった。だから最初から興味ない、仲良くなりたい人なんていないというバリケードをガンガンに築いて、人を入れないようにして、心をガチガチにガードして、生きてきた。

ただ、ある人と会って、お酒を飲んで、人と関わることの心地よさ、自分の本来持っていた要求に気付かされた。

誰にもどうせ理解されないという諦め、線を引いて引いて引いて、期待しないように、深く関わらないように、どうせ、どうせ、どうせ、と、何重にも予防線を張ってきたわけですが、最近はかなりノーガード戦法になってきた。変わったよね。変わったよ。人に対して、心の障壁がかなり取り除かれた。ゼロではないけど…。

本当はもっと人と話したかった、もっと人と分かち合いたかった。そういう気持ちをそんなに持ってたんだってこと、このタイミングで酒を飲むようにならなかったら気づかなかった。よかったーと今は思ってる。

いつも自分が変わっていくのは少し居心地が悪いけど、変わってしまったらあっという間だ。こんなの私じゃない、今までの私はもっとああだったこうだった、なんつっても一旦変わっちゃったら元には戻れないし、変わった自分を受け入れるしかないんだよね。楽しきゃいいじゃん、なんて昔はバカの象徴だと思ってた。でも今は半分以上本気で思うんだ。楽しきゃいいじゃんって。

その点私はとっても不誠実だから、今までのバカにして軽蔑してきたことを自分が口にしても、自分がだんだんそういう人間になっても、それはそれ、次の日からは違うことを言えばいいってね。ザ・テキトー。いいことだ。

人と話したい、仲良くなりたいという想い以上に、怖い、嫌われたくない、つまんない奴だと思われるに決まってるという思いが強過ぎて、自分が人と関わりたいという思いを持っていることに気が付かなかった。

自己肯定感が低い人、メンタル持ってる人は、生きてるだけですごいと思う。かかってくるストレス、疲れ方、傷付きやすさが全然違うもの。私だってこんなんでも一応頑張って生きているし、みんなも頑張って生きてる。
働いてる働いてないとか、関係ない。生きることは大変で、働いてないから頑張ってないとかでもない。生きるって大変、人生って大変という話なんだよ結局は。

嫌われること、なんとも思われないことは 怖いけど、その怖さを上回るだけの「もっと近付きたい」が今はあるんだよね。凄いことだ。

「自分でいる」ってのは難しい。じゃあ自分って何なんだなんて厨二病的なことを考え出したら訳分からなくなるし、ただ好き勝手にするということとも違うし。ただ自分でいられない場所がいっぱいあって、生きるということ自体、自分を殺さないと達成が難しい。
私が感じること、私が言いたいこと、私の欲望はあらゆる点で世の中とズレている。やりたいことがやれない、言いたいことが言えない、人生ってつまんないみたいな。我慢を強いられることばかりだ。

もっとみんなに愛されたい。嫌いにならないでほしい、話してて楽しい奴だなって思われたい。この要求をガッツリ自覚するのは結構しんどい。求めないこと、期待しないことで心を守ってきた身としては、「こうなりたい」という希望はざわざわする。
でも諦めて遮断するには期待が大きくなりすぎた。楽しい思いもいっぱいし過ぎた。もっと、という思いが今は一番かな。「私なんか」という気持ちとのせめぎ合い。じりじりと。友達がもっとできるといいなぁ。いっぱいじゃなくてもいいんだけど、依存的で一極集中してしまいがちな私としては、分散させたいというのもあるのよね。寂しいじゃん。

更に「飯を食う」「交流会」的な単語への嫌悪感の減退について。前よりも嫌じゃなくなった、というか楽しみですらある。無論、相手にはよるけれども…。その言葉への印象としてはプラス方向だよね。前は呪い殺してやろうかというぐらい、嫌悪の対象だったけど。

その違いはつまり、今まではまったく楽しいと感じられなかったことを「楽しいと感じるようになった」ということだ。今となっては何がそこまで嫌だったのか…。今もクソなやつは嫌いだよ。ウンザリする。でも前の私は、自分なりの基準をガチガチに設定して、その範囲から逸脱した人間はすぐに排除してた。「違う」ということで。

存在し得ない「本当の理解者」的な基準を掲げて、意図的に一人でいるようにしてた。なんでそうしてたのかと言えば、怖い目に遭いたくなかったから、傷つきたくなかったから。私が会いたいのに向こうは会いたくないとか、こっちが話したいのに向こうは別に話したくなかったり、こっちが求めるほどには相手は私を必要としてないなんて耐えられない。
だからデフォルトで、求めずに排除するという姿勢が出来上がっていったと。今もそうしたい衝動はあるのだが、踏みとどまっている。普通に人と関わるってのがどういうんだか分からん。自分が受け入れられるという自信がない。すべてはこれだよね。

でも。それを上回る気持ちが今はある。求めずに排除するというのはやめたし、完全に求めるのは怖いけど、少しずつ頑張って欲を出している。ふわふわした感じ。難しい基準を排したので、許容範囲はぐっと広がった。

だっけど程度問題だよね。こっちばっかり誘うのは惨めだ。必要とされてない私。でも変なプライドは押し込めて、もう一度ラインを送った。頑張ってるよね、私。無理をする必要はないけど、必要以上に諦め過ぎるのもよくない。難しい人生だ。

更にお酒について…、お酒飲むってことは、デリカシーなくなるってことだよね。人の気持ちを省みなくなって、思考そのものも回らなくなって、楽しきゃいいじゃん、となる。

相手がどんな気持ちだろうとか、これを言ったらどう思うかな?という細かい気遣いが、全部吹っ飛ぶ。楽だけど…いや楽だからいいやと思ってる。

前は酒飲んでデリカシーなくなってる奴、まあ元からない奴も多いけど、そういう人間はクズだと思ってた。人を傷つけないこと、人に気を遣うことが私にとっては一番大事なことだったから。でも過剰にそんなことばっかり考えてても疲れるし、私は十分疲れてきたので、そろそろいいんじゃないかなと。楽しきゃいいじゃん!オッケー!


…と、ここまでが変化について書き留めてきた文章。今はその段階からさらに進んでいて、前の自分との違いについてあれこれ考えることもなくなってきた。正直「あぁこんなことちゃんと考えてたんだ」って感じ。やっぱりあの段階でしっかり考えて書き残しておいてよかった。

私はある意味ではいい加減で不誠実な人間に成り下がったと言えるだろう。でもその分、人生がぐっと楽になった。誠実に苦しんで生きてる人には悪いなぁとは思うけど、私は今の自分の方がいいな。だって楽だから。それでいいのかなんて考えない。問わない。前より幸せで楽しくなったという主観がすべて、ということにしておく。

たくさんの苦しんでる人にはごめんね。こんな形で一抜けして罪悪感がまったくないわけじゃない。でもやっぱり最終的には自分が大事。救いのない人生だからこそ、自分で楽にしていかないと、って全部言い訳みたい?別に悪いことしてるわけじゃないのにね。

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人生変えたい 

私が踏ん張る場所、頑張るべき場所はここじゃないかと思っている。今、これまでのぼっち、友達ほぼゼロ状態を脱するチャンスがそこまで来ている。

仕事でも政治活動でもない人間関係、生きづらさを共有しながら一緒に生きていける仲間が、友達ができるかもしんない。

人に自分から近づくのは怖い。尋常じゃなく怖い。でもそれ以上に、今ここで人間関係をつくりたいという思いが私を動かしている。人生の荷物を軽くするために、今頑張ってる。

昨日は一人の方とラインを交換することができた。素晴らしいことです。そんなことを何度か繰り返して人生が楽になればと。

この世には救いがない。働かないと暮らせない、周りに合わせなきゃ迫害される、自分が自分でいられない、常に無理を強いられて、生きられる寿命は決まってる。苦しむために生きてるのかなって思うような惨状だよね。

でも、同じように人生きついと思ってる人と繋がることができれば、少しは人生マシになるかもしんない。私はちょっとした偶然からそのチャンスを今得ていて、それを掴むために必死になっている。

ブログもそうで、同じような惨状にある人と繋がりたいという思いでやってるし、ちょっと他ブログにお邪魔してコメントをつけさせてもらったりもしている。共感しつつ、言葉を交わしつつ…どうにかこうにか生きていこうよ。

一人は嫌というほど味わった。ここからはもう少し人と生きていきたい。クソのような人生が少しでもマシになるように、少しでも楽になるように。よろしくお願いします。

category: 雑文

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幸せになれない理由 

今日は人間がなぜ幸せになれないのか、というか私や一部の人間がなぜ幸せを感じられないのかということについて話をしたい。

幸せには主観的なものと相対的なものがあると思う。自分の感情として辛いか辛くないか、幸か不幸かというのは主観で当然のこととして、もう一つはやはり比較の問題、周りの人間と比べて自分はどういう位置にいるのかということだと思う。

主観的な幸せは文字通り、当人が幸せだと感じているなら周りがどうこう言えるものでもない。非常にわかりやすく「それは幸せなんだろうね」という感じ。

ただもう一つの相対的な幸不幸というのは必ずしも自分の主観としての幸不幸と同一ではない。多くの人より豊かな生活を送っていたとしても、多くの人より恵まれていると言えたとしても、イコールで絶対的な幸せには結びつかない。
なぜなら人は日常や同じことの繰り返しにはそこまで感謝もできないし幸せも感じられない生き物だからである。よほど宗教とか大病とかで悟りを開いてる人でもなければ、日常に感謝するってのは難しいことだと私は思う。

先進国と途上国の問題もそうで、確かに衣食住+命の危険もない環境は恵まれていると思う。それはそこと比べたらまったくその通り、殺される危険が少なく、今のところ平和な日本で、生活レベルだって先進国だけあって他の国と比べれば恵まれてることの方が多いわけであって、それだけでも幸せだろうと言われれば、相対的な問題として何も言い返せない。

しかし。しかしです、そのことにそこまでの幸せは感じ続けられない。なぜか。それはみんなが持っていて自分も持っているものは「普通」だから。

水洗トイレは普通。お店で食べ物が買えるのも普通だし、家電が各種揃った家に住めるのも普通、それは実はとても幸せなことなんだと思うけど、そのことをいつまでも喜んではいられない。「日常」は嬉しくないし、日常では「幸せだなぁ」とは思い続けられない。で、失ってから初めて気づいたりするのよね。

人間というのはつくづく欲深い、厄介な生き物だなぁと。幸せなことでも恵まれてることでも、それが続くと「当たり前」になって、感謝も「幸せとしての認識」もできなくなって、人が持ってるものがよく見える、自分にないものがもっともっと欲しくなる。

幸せになれないのはそういう精神構造があるから。幸せはちゃんとあるのに、見えなくなるというか、満足できなくなるというか、残念だよね。

でも主観はすべてだ。あってもあると思えなくて不幸せだと感じるなら、それがすべて。贅沢だろうとなんだろうと、幸せじゃないと感じるならそれは不幸だ。そんなことも含めて人生は基本楽しくないし、不幸せに陥りやすい、そういう風にできている。

だから、不幸度が高い人が、自分よりちょっと幸せそうに見える人を指してあれこれ言うのは一面では正しいけど、もう一方では間違えている。最終的には自分の感じ方がすべてで、他はないんだから。

100億持ってて「金がない」と思うのも、恋人が10人いて「全然モテないのが悩み」と言うのも全然自由。「あなたがそう言うなら」という話なんだ。ただどれだけ地獄を見たのかだけは重要。地獄を見ていない人間の話は私は聞かない、もちろんそんなのも全部主観、自己申告だけどさ。

人の幸不幸は境遇だけでは測れない。メンタルは時に境遇とはまったく関係なく発症するし、誤作動を起こす。そしてあるはずの幸せも続けば日常となり、最初ほどは喜べなくなるわけだから、外形よりも幸せでない人間がたくさんいるであろうことは想像に難くない。

人生は険しい。なぜ幸せに慣れるのか、慣れてしまえるのか。ひどい機能だ。嫌なこと、辛いことにもそりゃ一定慣れてしまえるものだけどさ。だから(?)私ももっと幸せになりたい。ないものがほしい、恵まれてるのも幸せなのもわかってるけど、もっと欲しい。

幸せでも辛さを感じることができる、面倒で厄介な生き物、それが人間。ないものねだりはよくないことのように言われるけど、ないものが欲しいのは当たり前だ。欲望を消せということ?無茶言うな。

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